突き刺してくる「母親」というブランド力

 

たしか、前回のブログで「一筋の光が射してきた」ので、その話はまた明日!なんつって、数日経過したうえに、その話はやめて、違う話をします。ごめんなあさいねぇ〜

 

だってね、先日実家の町内会が地蔵盆だっていうから、ちらっと実家に帰ってきてね、しかも他界した親父の誕生日だっていうんで、生誕祭やりたい!とかいう母親の早朝電話で起こされまして。

 

私が生まれ育ったのは京都。しかも繊維の街に育ち、中小零細企業の初代社長祖父、そして2代目を親父が、3代目はジェイソウルじゃなくて弟が(すべってないすよ、すべるってわかって言ってんだからね!!で、しかも弟は後継ぎしていない) そして、その町内会にはそれぞれのお地蔵さんがまつられてあり、お盆にはほこらから出して、町内会の子どもたちが、大きな数珠をお経にあわせて回して、町内の安全や繁栄を祈願する子どもの祭りが地蔵盆

 

長年、仕切っていた人が亡くなり、後継ぎを失った町内会の地蔵盆は、ぽしゃぽしゃな状態でなんとか継続開催していた。頑固な親父さんたちがいたからこそ、伝統行事は受け継がれた。しかしその頑固な親父さんたちは、次の世代に仕事を伝え育て任せる、ということをしないまま、次々に他界していった。せっかくの伝統行事をどう受継げばよいかわからない。若者世代が、なんとなく今風にアレンジしてやってみる。ソッコーで「そんなんとちがいます!」と大御所からのお叱りに、そんならやらないーと若者世代が去っていった←いまここ

 

薄ぼんやり思い出す、幼少期の地蔵盆。わりとなんだか知らないけど楽しかった。地蔵盆を知らせる行燈の絵は、子どもたちが描いた。私はよく自分が好きなキャラを描いていた。仮面ライダーウルトラマン、なぜか好きだったスヌーピー。それらはわりと好評で、褒められることのめったになかった私のなかでは、唯一褒めてもらった経験となった。その行燈が各家の軒先に灯り、地蔵盆開催期間中を知らせる。

 

私の生まれ育った街は殆どの家が商売をしている、今は、商売替えしてる家が増えた。うちもご多聞にもれず。そして地元商工会によると、60代70代が経営する中小企業の6割が、後を継ぐ人がいない状態らしい。

 

実にもったいない。私はあるものを壊して新しく作るのも悪くはないとは思うけど、せっかくあるんだったら時代にマッチするかたちに変えて継承したらいいじゃんかね?と思うのです。 もしくは、あるものとあるものを混ぜ合わせる。ファッションブランドなんかがしきりにやってるブランド同士のコラボレーション的なアレみたいな感じ。

 

建物でもそう。新しい建物もいいけど、今ある建物を今使いたい人がいい感じにリノベーションすれば、まだまだ使える。

 

京都にいくたびに、そのあたりどうにかしたいなと本気で思う。そしてやはり京都のおばちゃんらは、お節介だが料理がうまい。誰かに食べさせたくて手ぐすねひいて、待っている。これをどうにか、必要な人とマッチングできないもんかな。母が親父の生誕祭だからと、張り切ってホテルのディナーバイキングにつれてくれたが、私は近所のお節介大好きおばちゃんたちが作った手料理の方が数倍美味しいと感じた、ホテルのディナーバイキングよりもだ。

 

さて表題。どうしてだか、私は批判やバッシングには慣れているのに、実母になにか指摘されたり、怒られるとめちゃくちゃ心に刺さってしまう。それだけに母というブランドは強いんだ。息子を子どもらしく生活させてないことがご不満のようで、再三そのあたりをつかれた。

本来なら、そんなこと言われ慣れてるし、めったなことでは刺さらないのに、なぜか実母がいうとめちゃくちゃ刺される。学校にはなぜ行かさない?どうして同じ年齢の友達がいない?全て母親であるお前のせいだ…あー、うん。学校のことは、散々息子と話し合ってきた。小1になったばかりの息子と、将来のマップを書いて話し合った。人生には選択肢とそれを選ぶタイミングがある。どんなに幼くてもその権利は本人にある。どんなに幼くても話し合って自分の意志で選択してほしい。そうして私たち親子は同士としてここまでやってきた。それなのに、実母からの学校行かせろバッシングがめちゃくちゃ心に刺さる。刺してくる。

 

母親というブランド力、魔王のごとし、ラスボス感が半端ない。

 

加えてうちの場合、実姉もかなり刺してくる

「大人みたいな難しい話ばかり聞かされタケヒロがかわいそう」

ぶっささる。なぜよけれないんだ。いつもなら得意げにかわす矢の類だ。

恐ろしいことに、帰る頃には「あー私はダメな母親だ」というズタボロ状態が完成している。

 

母親てなんなんだろうな。血縁はなんのために、血縁でいるのか。私は血縁でもない赤の他人の仲間に、血縁以上に家族のように支えられて生きている。お父さんお母さんが大好き!と言える人はそれでよい。でも言えない事情を抱えていてもそれでよい。

 

そしてやっぱり人は人とのつながりの中で生かされている。1人では生きられない。血縁、赤の他人関係なく、同じベクトルの人や、安心できる人、楽しめる人とつながって生きていたい。

 

いやあ、それにしても、母親という強大な力よ。私はそこと戦おうとは思わないのに、すごく、きつい。普段は忘れているが、私も母親だ。息子にとって、脅威のブランド力になってないか、思考の中にいつも叩き込んでおかなければ。

 

人が人として誰かと生きていくときに、必要なことはなんだろうか?少なくとも、京都のお節介なおばちゃんらの顔が浮かぶし、地域の子どもたちのためにお盆の1番暑いときに、汗を流して地蔵盆をとりおこなうおじさんらを思い浮かべる。時代にマッチにする形でそれらを変えながら、人は人とつながりながら生きていけたらいいなと思う。

 

時には1人の時間も必要だけど、やっぱり誰かと話していたかったり、人って、なんだかそういったもんだから、わがままとか、迷惑とか思わずに、一緒にいたい時には一緒にいて、そうじゃない時も、なんとなく心の中では一緒でね。うん。そんな感じでどうだろうか?

 

あ、こうして綴っているうちに、ぶっ刺さっていた矢が抜けました。長文にお付き合いくださりありがとうございました。

 

次回こそ、この前の続きを。あ、なんだっけ?続きって?いい加減にしろー!はい!失礼いたしました!

 

こどもエンターテインメント

代表  みうら ゆうf:id:yuutakekodoen:20180819212814j:image