セクシャリティと命とぼくとわたしの話

ぼく(あえてこの呼称を使います)は未だに、子ども産んだんならそれ男じゃないじゃないか!「偽物FTM」と言われることがあります(FTMとは、性同一性障害、身体的性別と脳内や心の性別が一致しない状態を指しています)

 

SNS上ではもちろん、面とむかってでも「診断書見せてみろー」とかなんてことはわりかし頻繁に言われます。診断書は個人情報満載だから、もちろん公開できません。しかし、3年前に医学的ガイドラインにのっとり性同一性障害て診断されています。

 

だけどねーいや、なんていうか、診断受けといてなんですが、それがどうした?て感じだし、FTMであることが少しも特別だなんて思えないんですよね。

 

ですから偽物も本物もないと思っていて、まあ、いつもよく言ってます「自分以上でも以外でも以下でもない」やはり、ここにたどり着くわけです。

 

子どもを産むまでには様々な障壁があり、乗り越えても乗り越えても先が見えず「子どもを産むための臓器は揃っているのに、産み出すことができないダメな人間だ」と、男にも女にもどっちもつかずの自分を嫌悪したり軽蔑もしたり否定したりもした。

 

しかし資金も凍結してある受精卵もつきる最後の最後の体外受精で息子を宿した。その後は無事に産んで育てるんだと、そこにむかって邁進した。

 

しかし、ぼくの妊婦ライフは、自分が女だから男だからなんて言ってられない修羅場につぐ修羅場。切迫流産大出血から次は早産の危機からの妊娠7か月での突然の胎児完全逆子、重症のつわりで妊婦なのに激やせ。緊急帝王切開の麻酔でショックを起こし死にかけ、生まれてきた息子は心臓疾患で重篤な状態と聞かされ専門病院に搬送された。親子とも生きることに精一杯だった。ぼくは何者でもかまわないし自分の命にかえて、息子を助けてほしい。それしかなかった。

 

人間が人間を産み出す時に、ぼくは命のなんぞやを垣間見た気がする。人間の腹の中で人間を育て外に産み出す。これはもう生死の境界線を行ったり来たりする作業の連続だから、まったく我を振り返る間がない。そうやってどうにか息子もぼくも生きた。ぼくらは人として生き抜いたお互いを尊敬している。

 

そしてまたここで息子の言葉を思い出すわけです「僕らなにものでもない某人間」

 

生きていることじたいに、ぼくらはすべての体力も気力も知恵も財産もつぎ込む。そして、願わくば、優しさもお金も人間の持てるもの全ては「あるところから無いところへ」流れて循環すればいいなと思う。

 

てなわけで、優しさと経済がちゃんと循環するような社会にするためのあれやこれやを日夜考えてて、日々人に会い、日々話し合う。そうしているうちに、ちょっとばかり光が射してきたというか、見えてきたんで、そのお話はまた明日に。

 

いつもながらの長文乱文であいすみません。

 

またまた台風が接近しています。皆さんお気をつけて。

 

こどもエンターテインメント

代表  みうら ゆうf:id:yuutakekodoen:20180815005244j:image